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作品[註1]は、ここ[註2]にあった。[註3]

[註1]  この展覧会は、飯山由貴の作品をめぐって開催される。その作品が属するジャンルは「インスタレーション」と呼ばれるものであるが、飯山のこのインスタレーションは全一なかたちでは公開されない。会場において見出されるのは、インスタレーションの残片にすぎない。いいかえれば、ここに展示されるものは、厳密には「作品」とは呼びがたい。
しかし、そもそも「作品」を見るとは、いったいどういう事態を指すのであろうか。作品というものがひとつの関係態として成立するのであるとすれば、それを見ることは果たして可能なのだろうか。すなわち、見られるものと見る者、それらを取り巻く環境、そして、見られるものと見る者が共に属する諸システムなどが相互に形成する複雑な関係態こそが「作品」なのだとすればどうだろうか。その関係態の全体を「見る」ことは、ほんとうに可能なのだろうか。
また、「作品」なるものが関係態であるのならば、われわれが「作品」と呼んでいるあの物体は――画廊や美術館で目にするあの絵も、あの彫刻も――つねにすでに残片としてしか存在していないというべきなのではないだろうか。
ましてや、インスタレーションは、事物がしつらえられた空間の周囲や内部に、見る者が歩みをすすめる時間のなかで成立してゆくのであるから、そこに仕組まれた事物を以て「作品」と見なすことは――それが、残片であれ、全一なものであれ――厳密には不可能といわなければならないだろう。
ようするに・・・・・この展覧会は、いってみれば不在の「作品」をめぐって開催されるのである。


[註2] 具体的にいえば、じっさいの展示は次のような手順で成立する。
①作家がインスタレーションを画廊に仕組む、②作家以外の複数名の者が、インスタレーションの撮影と記述を行う、③そののち残片を残してインスタレーションを撤去する、④その残片と記録と映像を画廊に展示する、⑤展示に際して、同展に関連するウェブサイトを加える。
記述は、足立元、北澤憲昭、暮沢剛巳、福住廉の4人が行う。撮影はスティールとムーヴィーで行い、スティールは記述者各人が各自数枚を撮影する。ムーヴィーについては別に撮影者を立てる。記述とスティールは、この展覧会のためのウェブサイトに、あらかじめ掲載し、展覧会場とネット空間を同期させることを目論む。
こうした有りようについて、あえて実体的な意味で「作品」という語をもちいるならば、インスタレーションにまつわる残片と諸記録、それにウェブサイトを加えた会場構成の全体を「作品」と呼ぶことができるのだが、この「作品」は、しかし、ウェブサイトを通じて、会場の外部と繋がっている。すなわち、会場に収まってはいない。そればかりか、会場を訪れるひとびともまた、「訪れ」という行為によって作品を会場の外部へと関係づけずにはおかないだろう。とすれば「作品」は、いったい何処にあるというべきなのか。以上を前提として「作品」を捉え返すとき、「ここ」という近称は、微妙に、しかし深々と揺らぎはじめずにはいないのである。

しかも、このような事態は、インスタレーションにのみかかわるわけではない。見る者の訪れを俟って初めて立ち顕れる画面や彫像もまた、訪れによって――あるいはまた、作者という画面や彫像の外部に位置する存在によって――それ自身の外部へと関係づけられずにはいないからである。  
このように「作品」という存在は、「ここ」を焦点とする関係の拡散と集中のダイナミズムのなかにしか存在しない。「ここ」という場所は、「そこ」、「あそこ」、そして「どこか」との関係のなかでしか定位されえないのであるから、これは当然のことといえるだろう。


[註3] 70年代に一般化しはじめた「インスタレーション」は、美術史と美術批評に方法論的アポリアをもたらした。すなわち、実在の作品をめぐって――実体的な「作品」の存立を前提に――行われてきた従来の研究や批評の方法は、特定の場所に結び付く仮設的存在であり、しかも、演劇的な行為性を含むインスタレーションというジャンルには通用しない。このジャンルにかんして――そして、「パフォーマンス」にかんしてはもちろんのこと――美術史家や美術批評家は、演奏やダンスの研究や批評に似た方法をもちいざるをえないのだ。
美術史に絞っていえば、たとえば50年後の若き美術史研究者たちは、今日、さまざまな場において展開されているインスタレーションを実際に体験することは不可能であり、映像や言語による記録に基づいて、また、残片が残されている場合は考古学的手法によって研究を行わなければならない。そのとき、美術史研究は、現在とは似ても似つかぬものになるのにちがいない。しかも、このような方法論的次元における変化は、絵画や彫刻といった古典的なジャンルの研究にも濃い影を落とさずにいないはずであり、げんに、そのような事態は、たとえば美術の歴史社会学的研究というかたちで、すでに到来しつつあるのだ。
不在の「作品」をめぐる本展は、こうした事態を自覚的に捉えなおす契機をもたらすこと、さらには、「作品」なるものが記録や研究と、あるいはまた記憶と相関的に成り立つものであることを示す企てである。とすれば、「あった」という、存在をめぐる過去形の表現は果たして妥当といえるだろうか。また、「不在」という語は、適切といえるだろうか。以上に述べた事柄は、けっきょくのところ、次のように要約することができるのかもしれないからである。すなわち――「作品」は、「いま・ここ」にしか存在しえないのだ、と。


北 澤 憲 昭[補注]



[補注] この展覧会の企画者にして、不在の本文と、それへの註の作成者を示す固有名。


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